[山中事件]


 霜上則男さん



====事件の概要====

 1972年5月11日、石川県加賀市在住のDさん(24歳)が行方不明となり、同年7 月26日に同県江沼郡山中町の林道において白骨死体で発見された。頭部に陥没骨折 がみられた為、殺人事件として捜査が開始された。

 2日後に、Dさんに借金の保証人になってもらっていた青年(当時24歳)が逮捕 され、その青年の供述により、その青年に対する傷害行為で逮捕・起訴・公判中だ った霜上則男さん(当時26歳)が勾留中に殺人容疑で再度逮捕された。

 その青年の供述は、「霜上さんが主犯で、2人で共謀してDさんを殺した」とい うものであったが、霜上さんは捜査段階から一貫して殺人を否認、公判廷において も無実を訴え続けた。

 第一審の金沢地裁は、1975年10月に、霜上さんに対し「死刑」を判決した。(青 年には「懲役8年」を判決。青年は控訴せず服役)
 霜上さんは控訴したが、名古屋高裁が1982年1月に控訴を棄却した為、最高裁へ 上告した。

 1989年6月に、最高裁は、青年の供述を「疑う余地がある」とするなど、原審判 決に疑問を呈し、名古屋高裁へ差し戻した。

 1990年7月27日、差し戻し審の名古屋高裁は、「共犯者」である青年の供述を、 「殺害の実行などの部分で矛盾や不合理な点が数多く、信用できない」と指摘、本 件につき無罪を判決した。






#####視点#####
”誤判”と「死刑」 - - - 全知ならぬ裁判官の判決

 この事件において、第一審で「死刑」が宣告されたのは1975年、控訴審において 「死刑」を維持する判決がなされたのは1982年であり、それ程古い話ではない。特 に控訴審判決が出された1982年1月段階においては、既に、「財田川事件」および 「免田事件」で再審裁判が開始されており、”誤判による死刑判決”に対する強い 注意喚起がなされていた時期でもある。

 また、”共犯者の供述”が誤判を引き出す危険性については、「松川事件」や「 八海事件」などの最終結果が明確に示していた。

 にも関わらず、「死刑」の判決を維持する結論が下されたのである。

 全知全能ならぬ人間裁判官にとって、「死刑」の判決を下す事などそもそも無理 であると、この事件の裁判結果が如実に語っているのではないだろうか。






((( 略歴 )))
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 1972. 5.11---Dさん行方不明となる                         
       7.26---Dさんの遺体発見                             
       7.28---霜上則男さん殺人容疑で逮捕される(別件で勾留中)
 1975.10.27---第一審判決(金沢地裁)  ・・・ 死刑             
 1982. 1.19---控訴審判決(名古屋高裁)・・・ 控訴棄却         
 1989. 6.22---上告審判決(最高裁)    ・・・ 高裁へ差し戻し   
 1990. 7.27---差戻審判決(名古屋高裁)・・・ 本件につき無罪   
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戦後の主な事件

冤罪事件関係データベース