[島田事件]


 赤堀政夫さん



====事件の概要====

 1954年3月10日、静岡県島田市で、女子幼稚園児の Hちゃん(6歳)が誘拐され た。島田署はHちゃんの行方を探す一方聞き込み捜査を続けていたが、島田市をあ げての大々的な捜索の結果、3月13日、乱暴された姿での遺体発見となった。
 当初、多数の目撃証言より、犯人は勤め人風の若い男であると推定して続けられ ていた捜査は難航し、それらの証言とは異なる方向へ捜査範囲を広げた警察は、放 浪生活をしていた赤堀政夫さん(当時25歳)を逮捕した。

 赤堀さんは、いったん「自白」したが、公判廷においては無実を訴え続けた。
 第一審の静岡地裁は、凶器とされた石の鑑定結果等を拠り所にして、「死刑」を 判決。
 その後の東京高裁への控訴および最高裁への上告はいずれも棄却となった。

 獄中からの再審請求の結果、4度目の請求にて再審開始が決定され、1989年1月 31日に静岡地裁の再審判決おいて”無罪”が宣言され、死刑確定者としては4人目 の再審無罪による獄中からの生還となった。






#####視点#####
中立性の放棄 - - - 偏った精神鑑定

 第一審裁判所は、病院の院長および医師に対して、赤堀さんの精神鑑定を命令し た。鑑定内容は、現在および「自白」がなされた期間(1954年5月28日から6月17 日)において精神状態が異常と認められるか否か、もし異常だとすればその程度お よび原因について、などであった。

 このとき鑑定人の手元には、捜査段階での供述調書、すなわち「自白調書」しか なかった。その一方的な資料のみを参考にして、検察側の主張を補強する鑑定を下 したのだった。

 赤堀さんは、鑑定入院したとき、”自白は強制されたものであり自分は無実だ” と主張しアリバイに関する文書を書いて提出したが、鑑定人は相手にせず、逆に、 上記供述調書を信用し、「自白剤」の注射により犯行を認めさせようとした、と言 われる。

 鑑定人は、”中立”という鑑定の基本的鉄則を”放棄”した、とみなされてもし かたがないであろう。
 





((( 略歴 )))
 ********************************************************* 
 1954. 3.10---Hちゃん誘拐される                           
       3.13---Hちゃんの遺体発見                           
       5.24---赤堀政夫さん別件の窃盗容疑で逮捕される       
       5.25---一旦釈放となる。                             
       5.28---先の別件で再逮捕される                       
       6.17---殺人罪等で起訴                               
 1958. 5.23---第一審判決(静岡地裁)・・・ 死刑               
 1960. 2.17---控訴審判決(東京高裁)・・・ 控訴棄却           
      12.15---上告審判決(最高裁)  ・・・ 上告棄却           
 1961. 8.17---第1次再審請求 ===> 棄却                    
 1964. 6. 6---第2次再審請求 ===> 棄却                    
 1966. 4.17---第3次再審請求 ===> 棄却                    
 1969. 5. 9---第4次再審請求                               
 1977. 3.11---請求棄却(静岡地裁)                         
 1983. 5.23---地裁へ差し戻し(静岡高裁)                   
 1986. 5.30---再審開始決定告知(静岡地裁)                 
 1987. 3.25---検察側の即時抗告を棄却(東京高裁)           
 1989. 1.31---再審判決(静岡地裁)  ・・・ 無罪               
 ********************************************************* 



戦後の主な事件

冤罪事件関係データベース