[三鷹事件]


 竹内景助さん



====事件の概要====

 1949年7月15日夜、東京都北多摩郡三鷹町の国鉄中央線三鷹駅構内車庫に入庫し 停車していた7両編成の電車が発車暴走、車止めを突破し駅前交番や民家を破壊し て、死亡者6名を数える惨事となった。

 捜査本部は、大量解雇問題にからみ意図的に電車を発車暴走させた計画的犯行と して、電車転覆致死容疑で三鷹電車区の労働組合員等を次々と逮捕し、元同電車区 検査係の竹内景助さん(当時28歳)を含む10名を電車転覆致死関係で、他2名を偽 証の罪で起訴し公判となった。

 公判廷においては、竹内さん以外の11名は全員が無実を主張、一方、竹内さんは 取り調べ段階からの「共同犯行」の供述を撤回し、自ら「単独犯行」を主張、その 後”無実の訴え”を経て再び「単独犯行」の陳述するという形で供述が変転してい った。

 東京地裁は、検察側主張の「共同謀議」を”空中楼閣”として退け、竹内さんの 「単独犯行」であると認定し、竹内さんに「無期懲役」、他の全員を”無罪”と判 決した。

 続く東京高裁での控訴審は、なぜか事実審理を全く行わずに書面審理のみにより 結審し判決公判となった。
 判決は、他の11名に対する検察側控訴は棄却としたが、竹内さんに関しては、第 一審判決を破棄し「死刑」とした。

 検察側および竹内さんの上告による最高裁での審理は、15名の裁判官による大法 廷での審理となったが、事実審理を行わないまま「死刑」という重罪側に変更した 事や、罪刑法定主義にからむ刑法条文適用の当否等が問題となり、7名もの裁判官 が反対意見を付記するという極めて異例の形での判決文となった。
 8対7という1票差で決定された結論は、「本件各上告を棄却」。

 その後、竹内さんは、無実を訴え再審請求を行い、アリバイ等の”新証拠”が評 価され再審開始の可能性が強くなった1967年1月18日、脳腫瘍により、獄中での無 念の死を迎えた。

 2011年11月、竹内さんの息子さんが、東京高裁へ第2次再審請求。






#####視点#####
”侠気” - - - 何故の「単独犯行」主張

 竹内さんは第一審段階で、何故に「単独犯行」を自ら主張したのであろうか。

 特別弁護人であった一人は、竹内さんを”侠気のある男だった”と話している。 自ら「単独犯行」を主張する事により、検察側主張の「共同謀議」の線を崩し、他 の被告を救うという”侠気”である。

 元々無実の他の被告にとって、この”侠気”は、かえって迷惑な事であったとい えるかもしれないが・・・






((( 略歴 )))
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 1949. 7.15---電車暴走で6名死亡                           
       8. 1---竹内景助さん逮捕される                       
 1950. 8.11---第一審判決(東京地裁)・・・ 無期懲役           
 1951. 3.30---控訴審判決(東京高裁)・・・ 死刑               
 1955. 6.22---上告審判決(最高裁)  ・・・ 上告棄却           
 1956. 2. 3---再審請求                                     
 1967. 1.18---竹内さん獄中で病死                           
 2011.11.10---第2次再審請求                               
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戦後の主な事件

冤罪事件関係データベース