[弘前大教授夫人殺し事件]


 那須隆さん



====事件の概要====

 1949年8月6日夜、青森県弘前市で、Mさん(女性・30歳)が寝室にて刺殺され た。夫の弘前大学医学部教授が出張中の出来事であった為、当初は、痴情関係や怨 恨関係が疑われ、大学附属病院関係者が集中的に取り調べを受ける事になった。有 力容疑者として医大生が逮捕されたりもしたが、アリバイが証明されて釈放せざる を得なくなり、警察は、大きな黒星を晒した形となった。

 そんな中、那須隆さん(当時26歳)が8月22日に、既に決着していたはずの別件 で逮捕された。Mさん殺しを疑われた大きな理由としては、この事件に関する那須 さんの関心が必要以上であると思われた事がある。本人としては、捜査に協力をし ていただけであったのだが、その熱心な態度が不自然であるとみられた訳である。

 那須さんは、殺人に関しては否認を続けたが、10月22日に別件での勾留のまま本 件の殺人容疑で再逮捕され、その後、殺人罪等で起訴された。

 第一審の青森地裁は、本件につき”無罪”であった。

 検察側控訴による仙台高裁での判決は、一転して殺人についても有罪、「懲役15 年」が言い渡された。その後、最高裁で上告が棄却され、判決が確定し、服役とな った。

 那須さんは1963年に仮出獄となったが、それから8年後にMさん殺しの真犯人が 自ら名乗り出てきたのだった。1971年7月に仙台高裁へ提出した再審請求は、一度 は、その真犯人の告白を認めず棄却決定だったが、同高裁への異議申し立てが認め られ、再審開始決定。1977年2月の再審判決において、本件につき無罪が宣言され た。






#####視点#####
疑惑の鑑定 - - - 開襟シャツの血痕

 仙台高裁の控訴審において有罪の決め手となったのは開襟シャツに付着してい たとされる血痕だった。事件現場の畳表に付着した被害者の血痕と、那須さんの 部屋から押収された開襟シャツに付着していたとされる血痕が同一のものである と判定されたのである。

 再審判決により真犯人が断定されており、那須さんが無実である以上、双方の 血痕が一致するはずがないのは明らかなのであるが、何故その様な鑑定がなされ てしまったのであろうか。

 この「物証」は複数の鑑定人の手により検査されており、その色合いや斑痕数 が徐々に変化していった事が記録されている。最初の鑑定人は「灰暗色」、次は 「褐色」、さらに「赤褐色」と変化していき、斑痕数も増えていったのだった。

 血痕であるという認定をしなかった最初の鑑定人は、自分が検査した後に誰か が血痕を付着させたのだろうという見方をしている。
 那須さんの”無実”は確定したが、鑑定に関する”重大な疑惑”については未 決着である。






((( 略歴 )))
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 1949. 8. 6---Mさん殺害される                             
       8.22---那須隆さん別件で逮捕される                   
      10.22---殺人で再逮捕となる                           
      10.24---殺人罪等で起訴                               
 1951. 1.12---第一審判決(青森地裁)・・・ 本件につき無罪     
 1952. 5.31---控訴審判決(仙台高裁)・・・ 懲役15年           
 1953. 2.19---上告審判決(最高裁)  ・・・ 上告棄却           
 1963. 1. 8---仮出獄                                       
 1971. 7.13---再審請求                                     
 1974.12.13---請求棄却(仙台高裁・刑事一部)               
      12.19---異議申し立て                                 
 1976. 7.13---再審開始決定(仙台高裁・刑事二部)           
 1977. 2.15---再審[控訴審扱]判決(仙台高裁)               
                  ・・・ 本件につき無罪[検察側の控訴を棄却]   
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戦後の主な事件

冤罪事件関係データベース