[藤本事件]


 藤本松夫さん



====事件の概要====

 1952年7月7日、熊本県菊池郡水源村の路上で、同村役場衛生係A氏の刺殺死体 が発見された。警察は、拘置所を脱走中の藤本松夫さん(当時30歳)の仕業である との即断のもと張り込みを続け、同月13日に発見、逃げようとしたところをピスト ルで射撃し逮捕した。

 藤本松夫さんが脱走した拘置所に拘置される事になった所以は、刺殺事件から遡 る事1年あまりの1951年8月1日に上記A氏宅にダイナマイトが投げ込まれた事件 に端を発する。
 当時、藤本松夫さんは、ハンセン病患者と認定され「国立療養所」へ収容すると の通知を受けたところだった為、A氏による県当局への通報を恨んでの犯行である と警察は推測し逮捕したのだった。
 ダイナマイト投げ込み事件の裁判は、ダイナマイトの入手経路が一切不明でさら に藤本松夫さんはダイナマイトの取り扱いなど全く知らないといった疑問点も無視 される形で、1952年6月9日に熊本地裁において懲役10年が判決されていた。
 藤本松夫さんの脱走は、その一週間後であった。

 A氏殺害容疑の取り調べは、逮捕された際に銃弾を受けた腕の傷の治療もまとも になされないまま行なわれ、激痛の中で「自白調書」が作成された。

 第一審の熊本地裁は、確固たる物的証拠もない中、「死刑」を判決、福岡高裁へ の控訴および最高裁への上告は棄却となった。

 無実を訴えて再審請求を続けていた1962年9月14日、藤本松夫さんは突然その日 の死刑執行を知らされた。
 3度目の再審請求は前日付けで棄却されていたという。

 日本版「サッコ・バンゼッティー事件」とも言われる、極めて疑問点の多い事件 である。






#####視点#####
裁判の闇 - - - 療養所内特設法廷

 裁判は、「国立療養所」の中に特設法廷を開設する形で行われたが、裁判官は、 ハンセン病の感染を極度に恐れ、ゴム手袋をした上で長さ1mもあろうかと思われ る長ハシで証拠物件を扱ったという。

 医学的には伝染力がきわめて弱い事が知られているハンセン病に対して、必要以 上の恐怖心による警戒を露骨に示す裁判官により進められていった裁判が、はたし て正当な結論を見いだし得たのだろうか?

 死刑判決の大きな決め手となった証言さえも再審請求の過程でぐらついていった なか、傍聴人もいない特設法廷で行われた裁判の闇は限りなく広い。






((( 略歴 )))
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 1952. 7. 7---A氏刺殺される                               
       7.13---藤本松夫さん逮捕される                       
 1953. 8.29---第一審判決(熊本地裁)・・・ 死刑               
 1954.12.29---控訴審判決(福岡高裁)・・・ 控訴棄却           
 1957. 8.23---上告審判決(最高裁)  ・・・ 上告棄却           
     .  .  ---第1次再審請求  ==>  棄却                   
     .  .  ---第2次再審請求  ==>  棄却                   
     .  .  ---第3次再審請求                               
 1962. 9.11---法務大臣が死刑執行命令書に捺印               
       9.13---第3次再審請求棄却(熊本地裁)               
       9.14---藤本松夫さん処刑される                       
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戦後の主な事件

冤罪事件関係データベース